- 作者: フォレスト・カーター,和田穹男
- 出版社/メーカー: めるくまーる
- 発売日: 2001/11/01
- メディア: 単行本
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フォレスト・カーターのリトル・トリーは、著者の少年時代を描いた小説だ。
著者はネイティブアメリカンのチェロキー族で、祖母と祖父に育てられる。白人社会で、差別や、チェロキー族のしきたりなどを経験する著者。読後感は、至って清々しい、良書だ。
祖母が著者に語る場面。人の心について。
誰でも二つの心を持っている。ひとつの心は、ボディー・マインド、つまり体を生かし、守る心。もうひとつは、スピリット・マインド。もし欲深くなって、ズルいことばかり考え、人を傷つけ、利用したりしたら、スピリット・マインドはどんどん縮んで木の実ほどになってしまう。
体が死ぬと、ボディー・マインドも死ぬ。でも、スピリット・マインドは生き続ける。生きてる時に小さなスピリット・マインドだった人間は、生まれ変わってもやっぱり小さなスピリット・マインドしか持てない。だから、何も深く理解するすることはできない。そうすると、ボディー・マインドがのさばって、スピリット・マインドはますます縮んで、豆粒みたいになってしまう。もうスピリットをなくしたのと同じなんだ。
それは、生きてるのに死んでる人ってことなんだ。そういう人は、女の人を見るといやらしいことしか考えない。他人を見ると、ケチばかりつける。木を見ると、材木にしたらいくら儲かるかってことしか考えない。キレイなことなんかちっとも頭に浮かばないのさ。そんな人はうようよしている。
スピリット・マインドってのは、使えば使うほど大きく強くなっていくんだ。どうやって使うか。物事をきちんと理解するのに使うんだ。ボディー・マインドの言うままに、欲深くなったりしないこと。努力すればするほど理解は深くなっていくんだ。
いいかい、理解というのは、愛と同じなんだ。でも、勘違いする人がよくいるんだ。理解してもいないくせに愛しているふりをする。それじゃなんにもならない。
この場面は、チェロキー族の自然観や宗教観が色濃い場面だ。ネイティブアメリカンの自然観は、日本人のそれと似ていると、よく耳にする。なんだか、この祖母の言葉は感じるものがあった。
勝手に解釈すると、ボディー・マインドとは、本能的で自己中心的な心のことで、スピリット・マインドとは、理解しようとする心、愛する心のことで、ともすればそれは、偽善となってしまう、ということだろうか。
この小説では、主に著者と祖父との交流がメインで、この祖父がまた、口は悪いが愛のある人だ。
祖父のユーモラスな場面。英語に対する不満をぶっちゃけるシーンだ。
ニュー(knew)、というのは新品の品物のことだ。だから知っていたというのならknowedだ。
また、祖父と祖母はI love youのかわりに、I kin ye. と言う。それはI understand youという意味である。
ここでも、愛と理解は同じであるという考えが反映されている。人は理解できないものを愛することはできない。ましてや理解できない人や神に愛を抱くことはできない。だからこそ、理解することは愛することなのである。
この物語は、少年が祖父母から愛とは何かを教わる物語、といっても良いかもしれない。
最後に、僕がとても内省させられた場面。
行商人のワインさんが少年に語る場面。
ケチと倹約は違う。お金を後生大事にして、使うべき所に使わないお偉方。それがケチだ。倹約とは、使うべきところにはお金を惜しまないが、決して無駄には使わない。
ひとつの習慣は、もうひとつの習慣につながっていく。そうやって次々と身についた習慣が悪い習慣だと、人の性格を歪める。お金にルーズだと、時間にルーズになり、考え方すべてがルーズになってしまう。
続けて、ワインさんは、みんながそうなると政治家がのさばってしまうのだ、と語る。
僕も、良い習慣を身につけたい、とつくづく思う。