とある阿呆の随想録

阿呆の徒然なる日々

車内での叫びと変顔

「ああああああああ!!」

車の中でまた叫んでしまった。
ストレスがある程度たまるとやってしまう。
そして定期的に運転中に変顔をしてしまう。
その度に前の車が横へ車線変更をする気がするのは気のせいだろうか。

 

「ああああああああ!!」

再び叫んだ瞬間、私は妙にすっきりとした気分になった。こうした奇妙な儀式が私の精神衛生にどれほど寄与しているのかはわからないが、少なくともその場限りの解放感を与えてくれるのは事実だ。

 

問題は、叫ぶたびに前の車が微妙にスピードを落としたり、車線変更をしたりすることだ。無論、私が叫んでいる姿を直接見られることはないはずだが、なぜかそのタイミングが絶妙なのである。運転中の私は、全くの無害でありたいと願いつつも、時折その存在が他者に不安を与えているのではないかと感じざるを得ない。

 

さらに厄介なのは、変顔だ。叫ぶだけなら音しかないが、変顔はビジュアルの問題だ。運転中、ふとストレスの波が襲ってくると、私は無意識のうちに顔をねじり上げたり、目を見開いたりしてしまう。それは、いわば精神のデフラグ作業のようなものだ。表面化しないと解消されない、そんな種類のストレスが顔の筋肉を通じて表現されるのだ。

 

だが、それを見た後続車や並走する車の運転手がどう思うかは、考えないようにしている。考えれば考えるほど、いたたまれない気持ちになるからだ。あの一瞬の視線の交錯の中で、相手がどれだけの恐怖や不安、あるいは困惑を抱いたか——それを想像するのはあまりにも酷だ。きっと彼らは「あの人、何かに取り憑かれているのだろうか」とでも思っているのだろう。

 

だが私はあくまで健全で理性的な人間だと自負している。変顔や叫びは、私の日常生活における小さな「異常」だ。それ以上でもそれ以下でもない。何しろ、私の中ではこれがストレス解消のための極めて効果的なメカニズムだと確信しているのだから。

 

それに、こうした行動が実際に他者に影響を与えているのかどうかは、未だに確定していない。前の車が車線変更をするのも、後続車が不自然に距離を取るのも、すべて私の被害妄想の可能性がある。そう考えれば、実に平和な話ではないか。

 

それでも、時折考えることがある。この奇行を周囲に見られ続けることで、私は知らず知らずのうちに「近づいてはならない運転手」という烙印を押されているのではないか、と。そしてその結果、私の存在が道路上での新たな「安全装置」として機能しているのではないか、と。

 

そう考えると少しだけ誇らしい気持ちになる。もし私が変顔と叫びを繰り返すことで、他者が無意識に注意深い運転を心がけるのだとしたら、それは社会貢献の一環ではないだろうか?「不安な運転手を見たら、より慎重に運転する」という教訓を広めているのだとしたら、私はむしろ感謝されるべき存在なのではないか。

 

こうして自己肯定感を少し高めたところで、信号が青に変わった。私は前を向き、再び変顔をひとつ作り、アクセルを踏んだ。きっと今日も、どこかの誰かが私を見て車線変更をするだろう。それが日常というものだ。